14時35分40秒 [健康]
父の小細胞肺がん闘病記です。
誰かの参考になれば良いと思って、治療の記録、緩和ケアの記録などについて記しておきます。
希望にはならないと思いますが、覚悟する役には立つかも知れませんから。
なお、同じ肺がん、同じ小細胞肺がんでも、人によって症状も予後も様々です。私が過去に調べた闘病記でも生存日数は全然異なっていましたし。
癌はそもそも転移先の臓器によっても症状が異なりますし、抗がん剤の副作用も人それぞれでしょうから、最初に発症したのが肺(つまり肺がん)であっても、その後の経過は患者によって多様なのでしょう。
なので、以下の闘病記録はそのまま他人にも当てはめられるわけではないだろう点に注意して下さい。(さらに、私は医師ではありませんから表現は正確ではない可能性もあります。)
また、医療の世界も日進月歩ですから、将来にはもっと多種の治療方法ができているかもしれません。以下の記録では、肺がんの発覚時点は2018年です。このブログ記事をもっとずっと後になってから読んでいる場合は、その点にもご留意下さい。
肺がんが発覚した経緯は、①お腹が張る自覚症状が出る→②受診先クリニックで「肝臓に塊が見えるため全身を調べた方が良い」と診断される→③大病院でCT・MRI・PET検査を受ける→④癌の存在が発覚する……という流れだったため、発覚時には既に肺と肝臓に癌細胞が存在している状態でした。
日本国内には「ガン診療連携拠点病院」という指定を受けた病院が各地にあるようです。その1つの病院を紹介されたため、自宅からは少々距離があるのですがその病院の呼吸器内科に入院して治療を検討することになりました。
検査入院で腫瘍組織を採取した結果、種類は「肺がん」であり、リンパ節と肝臓へ転移していることが分かりました。肺から肝臓への遠隔転移があるため、ステージは4(末期)です。調べたところ、肺がんは自覚症状が出るのが遅い上に転移しやすいため、大半の人々は他臓器へ転移した後(=ステージ4まで進行した状態)で発覚するとのことでした。肺は呼吸するための臓器ですが、それにしては直接の痛みは感じにくい臓器のようです。
肺がんには種類があり、大きく2つに分類されます。全体の80%を占めるのが「非小細胞肺がん」(腺がん・扁平上皮がん・大細胞がん)で、残り20%は「小細胞肺がん」(小細胞がん)です。それぞれ治療方法が異なるため、まずは種類の特定が必要です。主治医の話では、80%の「非小細胞肺がん」は「月単位で悪化する」ような進行の遅い癌なのに対して、残り20%の「小細胞肺がん」は「週単位で悪化する」ような進行の速い癌だとのことでした。非小細胞肺がんなら、癌細胞の遺伝子型が合えば奏功率の高い薬もあるというような説明も聞きました。
当初は「検査入院後に一度退院し、翌々週あたりから治療入院」という予定が組まれましたが、進行の速い癌の可能性があるいうことで検査入院からそのまま継続して治療入院することになりました。なぜ検査結果が出る前からそう予想できたのかは分かりませんが、何か特徴のようなものがあったのかもしれません。そして、検査の結果、大変残念ながら進行の速い「小細胞肺がん」だとの診断が確定しました。
肝臓にある癌細胞は肺からの転移によるもの(転移性肝がん)なため、治療としては「肺がん治療」を進めることになります。癌は原発巣(=腫瘍が最初に発生した部位)によって性質が決まるため、たとえ他臓器に転移していても原発の治療方法を使うそうです。(普通は肺がんの種類を調べるためには肺の腫瘍から組織を採取しますが、父の場合にはまず肝臓から腫瘍組織を採取して調べました。肝臓から、小細胞肺がんの癌細胞が見つかったので小細胞肺がんだと確定したとの話でした。)
※小細胞肺がん患者の多くは喫煙者だそうですが、私の父は煙草は吸いません。禁煙したというわけではなく、元から喫煙者ではありません。なので余計に「喫煙者ではないのになぜ」という思いがありました。
なお、小細胞肺がんは進行が速い分、抗がん剤は効きやすいという特徴もあるそうで、そこが1つの希望でした。
治療開始前に主治医から説明を聞きました。
大前提として、離れた臓器に転移しているということは、癌細胞は既に(血管かリンパ管を通って)全身を巡っているため、全身の癌細胞を消滅させることは不可能だとのこと。癌細胞が一カ所に留まっている段階なら切除による根治(=完全に治ること)も目指せますが、既に「切除して根治できる状況」ではなく、化学療法(抗がん剤の投与)で腫瘍を小さくする方向で治療を進めるほかないとのこと。
つまり、「根治は不可能であり、延命を目的とした治療になる」との説明でした。
主治医から説明を受けた治療方針や使用する抗がん剤などについて、国立がん研究センターなどの研究機関や、ガン診療連携拠点病院、そのほかの民間病院や製薬会社などが公開している情報も含めていろいろ調べました。それらから分かったことは、(主治医に説明された治療方針は)遠隔転移のある小細胞肺がんへの対処としては、確かに世の標準的な治療方法なのだということでした。特別な病院だけが実施できる治療があるわけではなく、費用を掛ければできる治療が増えるわけでもなく、あくまでも過去の莫大な肺がん患者から得られたデータを元に判断された「最も長く延命可能な治療方法」がこれだ、ということのようです。
肝臓以外の臓器への転移はなかったためか、入院しているとはいえ本人が(傍目には)普通に起きて生活できているのがまだ不幸中の幸いではありました。肺がんは脳や骨にも転移しやすい癌だとのことです。もし脳転移があれば放射線治療も併用する必要があり、体力的に厳しくなり入院期間も長くなります。また、骨転移があれば全身に痛みが起きます。それらは(少なくともこの時点では)なかったようでした。
肝臓ももちろん重要な臓器ですが、人体の中では最も大きく、一部が失われても他の部分で代替できる臓器です。転移先が肝臓だけで済んでいたのは、進行の速い小細胞肺がんという大きな不幸の中では、ささやかではありますが幸いだったと言えるのかも知れません。
最初の抗がん剤治療(イリノテカン+シスプラチン)は、「4週間の投薬パターン」を1クールとし、これを4クール繰り返す4ヶ月間でした。各クールの先頭約10日間は入院が必要でしたが、それ以外は退院して家で過ごすことができました。各クールの最初に入院が必要なのは、各クールでの1回目の投薬(点滴)には12時間かかることと、数日間は副作用を抑える薬を投与し続けた上で、副作用発現の様子を見る必要があるためです。
使用が選択された抗がん剤について調べてみると、小細胞肺がんに対しては日本だけでなくその他の医療先進国でも同様の治療方針が採られているようでした。使われる薬に若干の差はありますが、それは「日本人には統計上こちらの方が効いている」というデータを元にしたもので、「現代ではこの方法が最も延命できる」と確立された方法なのだと分かりました。
逆に言えば、現代の医療技術でもそれくらいしか治療方法に選択肢がない、とも言えるのでしょう。
一方、抗がん剤の副作用として現れる症状については様々に抑える薬があり、あらゆる症状に対処が可能だとの説明を受けました。特に吐き気を抑える薬は多数あり、抗がん剤の投与後から数日間で数種類・複数回の投与がありました。癌治療というと「抗がん剤の投与期間中はずっと吐き気に苦しむ」というようなイメージがありましたが、それは既に「昔のこと」だと言える状況になっているようでした。吐き気に対処する制吐薬ガイドラインというのが2010年にできており、どこの病院の癌治療でも、今は患者が吐き気に苦しむことはないのかも知れません。
副作用のチェックシートのような紙があり、どのような症状が現れたかを日々チェックして、それに対処する薬を追加投与していく方針のようでした。吐き気が抑えられているのは幸いですが、だからといって副作用がないわけではありません。下痢のような体感できる副作用もあれば、血小板の数の低下といった(直接の自覚症状がなく)血液検査でしか分からない副作用もありました。
1クール目の入院の時点で、日々の血液検査から「肝臓の値は改善している」との報告を受けており、抗がん剤の効果は出ているようでした。本人も、「お腹の硬くなっていた部分の量が多少は減っている」と実感できていたようです。入院中は毎日血液検査を実施して効果が測られますが、腫瘍の実際の大きさはCTを撮るまで分かりません。2クール目が終わった後で撮ったCTでは、「肺がんの腫瘍の大きさも縮小している」との結果が出ていました。
「最初の10日間程度を入院し、続く約20日間は自宅で過ごす(その間は週1回だけ通院)」というパターンを4回繰り返した後に、休薬期間を2ヶ月おくことになりました。抗がん剤は長く連続使用できないためだとのことです。
小細胞肺がんには「進行速度が速い代わりに、抗がん剤は効きやすい」という特徴があり、調べたところ「70%の人々で癌細胞は縮小する」とのデータがありました。
父もその例に漏れず、1コース目(=4クール)終了時点では、発覚時点の腫瘍の大きさと比較すると3割ほど縮小していました。他の臓器への新たな転移はありませんでしたし、3割とはいえ縮小したということは抗がん剤が効いているということですから、今後の希望になりました。
休薬から2ヶ月後の検査で、残念ながら肺がんの腫瘍サイズが再度拡大していることが判明しました。
改めて情報を調べてみると、小細胞肺がんは「抗がん剤が効きやすい」という特徴があるものの、同時に「その効果は長続きはしない」という性質もあるようでした。(このときに限りませんが)癌治療の情報を調べていると、希望になる情報を発見して少しだけ安心できると、実はその希望は(希望には違いないものの)ささやかな希望でしかなかったと後から分かる……というようなことの繰り返しだったように思います。
1コース目の抗がん剤治療完了から2ヶ月しか経っていないわけですが、「再発」という扱いで、2コース目の抗がん剤治療を開始することになりました。
2コース目で使う抗がん剤(アムルビシン)は、初回投与時には副作用を見るため入院が必要ですが、それ以後は(3日連続での投与が必要なものの、それぞれの所要時間は各2時間で済むため)通院で良いとのことでした。調べると、この抗がん剤治療も小細胞肺がんの2コース目としては標準的に選択されている治療方法でした。
今回の抗がん剤は3~4週間を1クールとして、1クールで1回(3日間連続)だけ投与します。投与間隔は短い方が望ましいそうで、父には体力があるようでしたので、最初は「若い人と同じように3週間ごとに投与していく」という計画が立てられました。しかしながら、入院後の血液検査で予想以上に血小板の数値が低いことが判明したため、抗がん剤の投与は延期して、入院したまま1週間ほど様子を見ることになりました。
その結果、「血小板の数値は低い状態ではあるものの安定はしているため、抗がん剤の投与を開始しても良い」との判断になりました。ただし、当初に予定していた強気な3週間単位ではなく、4週間単位で進める方針に変更されました。
抗がん剤2コース目治療の終盤でのCT検査結果を受けて、主治医から「これ以上の抗がん剤治療はせずに、緩和ケアを選択してはどうか」と推奨されたとの話を父から聞きました。肺がんに使える抗がん剤の種類はまだ多数あると思っていただけに、寝耳に水の話でとても驚きました。
この時点ではまだ父しか主治医からの話を聞いていなかったので、改めて家族で病院へ話を聞きに行く前にいろいろ調べました。その結果、確かに肺がん治療に使われる薬は多数あるものの、その多くは(患者の80%を占める)非小細胞肺がん用の薬であり、小細胞肺がんに使える薬はずいぶん少ないことが分かりました。
肺がんは日本で一番死亡数の多い癌であり、毎年莫大な患者データが集積されているでしょう。小細胞肺がんでは、3コース目の抗がん剤投与はむしろ副作用によって生存日数を縮めてしまう危険も指摘されていました。5%程度の患者には3コース目の抗がん剤で延命効果が出るようですが、裏を返せば「95%の人には延命効果がないにもかかわらず副作用の危険には晒され、病院のベッドで薬を投与される日数だけが増えてしまう」ということでもあります。そもそも、全国のデータに含まれる肺がん患者には若年層も含まれていることと、その「延命効果が得られた5%の患者」には「2コース目の抗がん剤治療でも腫瘍が縮小している」というような何らかの効果がベースになった上でのことだとも言えるわけですから、厳しそうに感じました。
改めて家族で話を聞きに病院へ行ったところ、主治医からの説明は主に次の3点でした。
以上の点から、「呼吸器内科の総意としては、これ以上の抗がん剤は使わずに、緩和ケアに移行した方が良いとの判断だ」という説明でした。
さらに、2コース目の治療を開始する時点でも血小板の値は基準値(10万)には満たない状態(7.5万くらい)だったので、本来なら抗がん剤の投与は開始できなかったのだが、本人の体調が良かったので使用を決断したとの経緯も説明されました。「現在でも血小板の値は基準値に満たない(7.5万)ので、3コース目の抗がん剤を使うとしても用量を減らして使うことになる」とのことでした。
主治医からは最後に「まだ体力があって本人が希望するなら、その5%に賭けて使ってみることを医師として断りはしないが」という説明を受けましたので、父が希望するなら続ける選択もあるとは思いましたが、本人の「やめとこうか」という選択によって抗がん剤治療は終了する結論になりました。
風邪薬や睡眠薬のような一般的な薬なら「効果があるかどうか分からなくてもとりあえず飲んでみれば」という判断になるでしょう。それは副作用が大したことがないと分かっているからです。抗がん剤の場合には、副作用によってかえって生存期間を縮めてしまう可能性があるわけで、「とりあえず投与してみれば」と気軽に判断することはできませんでした。
ただでさえ95%の患者には延命効果が得られないどころか副作用で生存期間を縮めてしまう可能性すらある上に、量を減らしての投薬しかできないとなれば、病院のベッドの上で過ごす日数だけが長くなってしまい、自宅で過ごせる日数は逆に減ってしまうとも考えられます。その状況を考えると、確かに治療継続の選択は難しいとも思いました。
とにかく、小細胞肺がんに使える薬が少ないことが残念でなりません。同じ肺がんでも(80%を占める)非小細胞肺がんにならもっと多数の薬があるようですが。2017年にノーベル賞で話題になった免疫チェックポイント阻害剤(オプジーボなど)も、非小細胞肺がんには使えますが、小細胞肺がんには使えません。2018年10月にはオプジーボの適用対象が拡大されて多種の癌に対して投与可能になったというニュースが出ていましたが、そこに小細胞肺がんは含まれていませんでした。(さらに調べると、小細胞肺がんにオプジーボを使った治験の1つでは、奏功率が10%あるものの、有害事象発現率が13%あり、1年の生存率は33%でしかないとの結果が出ていました。)
時々テレビに肺がん治療を数年続けている患者が登場したりしますが、それはおそらく(進行が遅くて薬の多い)非小細胞肺がんだったり、早期発見できた人なのでしょう。調べると、長く生存できている患者に採用された治療法でも、同時期の治験参加者は副作用が原因で亡くなっていたり、そもそも効果がなかったりする方が多数でした。つまり、報道されるのは、あくまでもうまく治療が奏功したレアケースな患者なのでしょう。癌というのは21世紀になった現代の医学でも不治の病なのだな、と落胆するしかありません。
抗がん剤の治療を終了してから1ヶ月後の検査では、血小板の値は基準値の半分くらい(5.1万)まで低下していました。味覚が異常で、何を食べても「嫌な味がする」と言っていました。食欲がなく、昼は食べなくても空腹を感じないとか。この頃の体脂肪率は9%まで低下していました。
緩和ケア選択の2ヶ月後あたりで主に腰の痛みが悪化し、痛み止めとしての処方を始めることになりました。まずは適量を探るために最小限の処方量から開始するため、最初は週1回の通院が必要でしたが、翌月には半月に1回のペースでの通院で良くなりました。「入院すれば適量はすぐに特定できるよ」と案内されたそうですが、入院するよりは多少面倒でも通院の方が良いと言ったようです。(それはそうでしょう。)
入院することなく自宅で生活できている点は良いですが、食欲がほとんどないためか体重が減少し、体脂肪率は1桁台にまで下がっている姿を見るのは、なかなかつらいです。
趣味の園芸で庭には花がたくさんあり、冬は小型の温室でいろいろ育てていたのですが、「残しても扱いきれないだろう」との判断か、少しずつ処分していました。庭の芝生も今後は伸びないようにシートで処置したいとの希望で、庭全面に防草シートを敷いたりしていました。ここまで来ると、できるだけ長く無事に生きて欲しいと願うのみです。
肺がん発覚の1年後に、病院側の異動で主治医が代わっていました。新しい主治医から、(私の)自宅近くにある病院の呼吸器内科に懇意の先生が居るので、そこに引き継いではどうかとの提案を受けました。その病院へは自宅から車ですぐの距離なので便利です。そこで、そちらへ移ることになりました。調べたところ「ガン診療連携拠点病院」ではありませんが、肺がん治療も行われている病院でした。(詳細は割愛しますが、規模自体は前の病院よりも大きな病院です。)
直接主治医から聞いた話では、肺の癌は拡大していないものの、肝臓に転移した癌の方は拡大しており、肝臓そのものが肥大化しているとのことでした。新旧のCT画像を比較すると、確かに広がっているのが分かります。本人が感じている腰痛は、肝臓の肥大化によって肝臓の表面にある神経が圧迫されているからではないかとのことでした。
とにかく、血小板が少ないことが問題です。主治医の推測では、「最初の抗がん剤治療で、血小板を作る骨の組織にまで悪影響が及んでしまったのだろう」とのことでした。抗がん剤は、癌細胞だけに限定して攻撃してくれるわけではありませんから、そのような悪影響を及ぼす副作用もあり得るのでしょう。血小板を作る組織が少なくなってしまっている以上、さらなる抗がん剤の使用は悪影響を増加させ生存期間を狭めてしまうとのこと。今は「攻め」ではなく「守り」の方針で、「できるだけ今の身体を温存できるよう対処すべき」との方針を改めて説明されました。
これ以後は、新しい病院へ引き継ぐことになりました。自宅に近い病院が使えるのはとても良かったと言えるでしょう。前の病院だと電車とバスを乗り継いで移動する必要があり、乗り換え時の徒歩も含めて移動が大変でしたから。
肺がん発覚の14ヶ月後あたりでは、やや身体がだるくなり、庭の植木に水をやるのも一部だけしかできないと話していました。その翌朝には、「立っているだけでもしんどい」と言うので、洗面台の前にも椅子を置いてどこでも座れるように対処しました。「一気に体力が失われた」と言い、「こんなにも突然来るものなのか」と本人も驚いていました。
その月に、新しい病院での初診察がありました。この頃は「長く歩くと疲れるものの、車の運転だと楽だ」とのことで、本人はまだ車を運転していました。昨今、高齢者の交通事故が大きく報道されていて心配はありますが、長く歩くことがしんどい場合、家に閉じこもりになるよりは短い時間でも外に出られる方が気は晴れて良いのかもしれないとも思いました。
これまでは「だるい」という主に肝臓由来の影響が大きかったようですが、次第に呼吸が苦しくなる咳が目立ってきました。肺の腫瘍は気管支の根元あたりにできているので、あまり大きくなっていなかったとしても影響は出やすいのかもしれません。この時期、ある朝に計測した体脂肪率は、わずか3%でした。
肺がん発覚の14ヶ月半後あたりの午後に喀血。「かなりの量が出た」との本人談で病院を受診したところ、そのまま入院になりました。病院を変更してまだ2回目の受診です。もし病院が前のままだったら行くのは難しかったでしょうから(車道の距離でも数十km離れているので)、病院を変えるタイミングはギリギリ良かったと言えます。
即日入院となった夜に、家族で主治医から話を聞きました。前の病院から引き継いだデータに含まれていた先月のCT画像と比較すると、肺の癌も肝臓の転移癌も大きさに目視で分かるほどの差はないとの話でした。ただ、今日の肺のCT画像には「腫瘍から出たと思われる血」だと説明された白い影が多数写っていました。肺の癌は気管支の近くにあるため、多くの血は外に出て行くものの、一部の血は肺の奥に溜まってしまう(出血が止まれば数週間で自然に吸収される)とのことでした。
今回の喀血は、肺の腫瘍からの出血だと考えられ、今できることは止血剤を点滴して血が止まるのを祈るのみとのこと。(治療の初期ならカテーテルで詰めたり出血箇所を切ったり対策は複数あるものの、現段階ではほぼ止血剤で対処するくらいしかないとの説明でした。)
血液検査では、ヘモグロビンの数値が少し下がっているものの、前の病院側で危惧していた血小板の数値は回復(6.4万→11万)していました。「回復の理由は説明できないが、抗がん剤治療を止めたことで血小板を作る細胞が復活してきた可能性はある」とのこと。この数値が今後下がることがあれば、輸血の必要が出てくることもあるとの説明でした。
緩和ケア専門のホスピスなら、この期に及んでは「一切輸血しない」という選択もあるそうですが、この病院ではそこまで潔い決断はせず、輸血が必要なら輸血を考える方針だとのこと。ただし、窒息などの危機的な状況に陥った場合には、延命措置は執らないとの話でした。そのような状況なら、たとえそこで詰まる血を取り除くために喉へ管を通し続けることにしても、本人の苦しむ時間が増えるだけだからとのことです。(その後に治る可能性があるのなら一時的に苦しくとも喉に管を通す選択はありますが、もはや治癒を期待できない状況で喉に管を通してしまうと、意思表示の手段がなくなってしまう上に「死ぬまで苦しみ続ける」ということになってしまうため、そのような手段は採らないとの説明でした。とても納得できる説明でしたし、父本人もその方針に安心している様子でした。)
主治医と1時間弱くらい話したところで父が再度喀血。なかなか止まらずに病室に戻りました(十数分で落ち着きましたが)。たしかに、この頻度で血を吐くとなると、苦しいだろうと思いました。
その後、父を病室に残して別室で主治医と話をしました。主治医からは、「希望を持たせるために本人の前では言わなかったが」との前置きで、このまま血が止まらない可能性もある点や、自力で血を出せなくなると窒息の危険もあることなど現実的な説明を聞きました。肺から出血すると、その血液は気管に出ます。気管に液体があれば常時苦しい感覚が続くでしょう。父はそういったことを表に出さないので傍目には分かりませんが、主治医の説明では「当然苦しいでしょう」とのことでした。今は安静にして血を止めるようにするしかないとの話でした。
素人目でCT画像を見ると、肺より肝臓の方が腫瘍の割合が大きいため、「肺より肝臓の方が危険なのでは」と思っていましたが、腫瘍から出血する可能性を考えると(腫瘍の体積の問題ではなく)肺の方が危険なのだと分かりました。この日は主治医の先生と1時間半くらい話しました。とても詳しく説明して頂ける良い先生に見えました。ここまで来ると、とにかく苦しまなければ良いな、と願うのみです。
これ以後、数回入退院しましたが、どの入院中もすべて(亡くなる当日まで)、毎日出勤前と帰宅前の朝夜2回、母と二人で病室へ行きました。母は、仕事が休みの日には時々昼にも行っていたようです。主治医によると、家族が毎日顔を見せる場合と見せない場合とでは、明らかに生存日数が異なる(顔を見せる方が長く生存している)との話でした。この点でも自宅に近い病院に変わったのは良かったと言えるでしょう。
肺からの出血は翌日の朝には完全に止まっていました。しかし本人は身体のだるさのために何もする気力が起きず、「縦の物を横にもしたくない」と言っていました。ただ、歩いてトイレに行くことはできるとのこと。トイレは病室の真横にあるため便利そうでした。そもそも建築されたばかりの病棟なため全体的に綺麗で、建物内も広くてゆったりしています。前の病院と比べれば、遙かに環境は良さそうに見えました。
一時はどうなることかと思いましたが、その後は安定し、入院の数日後には「退院を希望するなら退院できるようにする方向で検討しましょうか」との診断が出ました。体力は少しだけ回復してきたとの本人談もあり、精神的にも余裕が出てきた様子。とはいえ病院食は3分の1くらいしか食べていないこともあって、体重が減っていましたが。体脂肪率は8%で、以前の最低値よりは増えていました。
「症状が安定しているので自宅にいた方が良いだろう」との主治医の判断で、翌週に退院しました。退院日に主治医から聞いた話では、「肺がんは脳転移しやすいので脳も調べた方が良いが、もうそこまで検査したくないという本人の希望もあり、それならそれでも構わないという判断だ」とのことでした。
父の話では、病院では病室とトイレの間しか歩かなかったこともあり、病室から駐車場まで歩いただけで疲れたとのこと。筋力が低下しているためか、ずっと同じ姿勢で座り続けるだけで身体が痛くなり、散髪屋のソファに座る30分間でも痛くなると話していました。自宅の敷地をただ一周歩くだけでしんどいとのこと。
ある日、父は長年の友人らと1時間だけ外食に行きました。食事は少しだけしか取れませんが、酒のつまみのような辛めのものなら少し食べられるとのこと。どんな食事でも後味が悪くなるので食欲がわかないものの、塩辛い物なら塩味が最後に残るのでマシだと話していました。とはいえ、甘いものでもシュークリームの中には美味く食べられるものもあったり、美味しく飲める飲料もあるにはあったりするようでしたが。ただ、どれも一度に取れる量はほんの一口程度だけです。
庭作業はほんの少しだけすると、すぐに疲れるとのこと。しかし、毎日花の世話をしたり木を剪定したりはしていましたし、近くのホームセンターまで出向いて買い物をしたりする日もありました。
肺がん発覚の17ヶ月後くらいのある日、朝食を一口食べた段階で胃と肝臓の間が痛くなり病院を受診。検査で異常はなかったものの、念のために入院することになりました。とはいえ、その翌日には漫画を読む余裕は出てきた様子で、数日後には何か囓れるお菓子が欲しいと要望するなど、何かを食べる気力も戻ってきたので良かったのですが。
翌週のある日には、病室のカーテンに血が付いていて驚きました。話を聞くと、前夜にベッド横のテーブルに足を引っかけてしまって転倒し、腕をすりむいたとのこと。血小板が少ないために血が止まりにくいので、少しの傷でもたくさん血が出てしまうのだろうとの話。後から思い出すと、このあたり以後で、徐々に転倒の頻度が増えてきたように思います。
入院の翌週には経過が安定してきたため、退院予定が決まりました。漫画を読んだりテレビを見たりする気力はあるようですが、「もう自宅で2階に上がりたくないので、介護ベッドをレンタルして1階に置きたい」との希望。階段を使って上り下りする体力的な余裕がないだろうとの判断のようでした。
翌日には、母の人脈から介護ベッドのレンタルと設置が完了。主治医の先生は「奥さんは顔が広いですね」と驚いたと父が言っていました。普通は希望した翌日にレンタルが完了することはないようです。介護保険での介護認定があるとベッドのレンタル料金が安くなるため(というか、介護認定がないと貸せないという制度らしいため)、市役所経由で担当者が病室まで介護レベルの判定に来ました。結果はすぐには分かりませんが、癌という病名がある以上は何らかのレベルにはなるとのこと。(後日に市役所から「要介護1」に決まったという書類が届きました。)
介護ベッドは、病室にあるのと同じパラマウントベッドで、リモコンを使って上下に動かしたり、頭や足部分だけを動かしたりできます。電源は家庭用コンセントにケーブルを1本繋ぐだけなのでどこにでも設置できます。だいたい1ヶ月あたり1,100~1,400円くらいでレンタルできるようです。ただ、病室にあるベッドとは異なり、ベッドの下に車輪は付いていないので、動かすことはできません。すごく重量があるので、一度設置したら位置をずらすのは無理です。(逆に言えば、相当に安定して使えるということでもあります。)
結局、16日間の入院期間の後に退院しました。このとき、父が自動車から降りる際に、足の先が引っかかってスリッパが脱げてしまいました。しかし、足先が痺れていて感覚がないために「スリッパが脱げた」という事実にすぐには気づけず、しばらく経ってから目で確認して、ようやく「スリッパが脱げてしまったのだ」と分かるのだとか。
帰宅時に、自宅の玄関前にある数段の階段で転倒。この高さの階段を容易には上れないことが判明しました。足がうまく上がらない様子です。玄関にある数段の階段が上れないなら、自宅の2階へ上がる階段ももちろん上れないでしょう。病院には段差が一切ない(上下移動はエレベーターで済む)ので、「階段を上れないのだ」と気付ける機会がなかったようです。体力や筋力が、もはやここまで低下していたとは驚きました。
以下は、緊急入院することになる1週間前の話です。
椅子がない状態で低い位置に座ると、手すりのような支える物体がない限り再度立ち上がるのが難しいので、風呂の椅子が低すぎて困るとのこと。病院の風呂場には背の高い椅子があったとの話で、早速ネットで介護用品を探したところ、座面の高さを自在に調節できる風呂用の椅子(シャワーチェア)があったので注文。これは翌々日に届き、付属のネジを数本留めるだけで簡単に組み立てられました。高さの選択肢が複数あるため、ちょうど良さげに調節できてうまく使えた様子。ただ、この夜は吐き気がするとのことで、シャワーを試しただけでした。
父は本当に骨と皮だけのようなガリガリの身体になっていて、見ていて痛々しいです。腕は、ほとんど肉がなさそうなほど細くなっています。お腹や背中にイボのような隆起が多数あるのは、癌によって血が溜まっているからだとのこと。
週の半ば、食欲がなく、トイレと洗面台には行けても、しんどくて家の中をうろうろすることすらできず、風呂もシャワーが精一杯で湯船には浸れないとの話。次の診察日には入院を希望してみると話していました。
その週の金曜日の朝、通院のために玄関を出る際、まず、靴を履くためにしゃがもうとした時点で後ろに転倒。次に、玄関にある数段の階段を下るところでも横に転倒。足の力が足りなくなっているためか、段差を下る際に身体を支える力が出せない様子でした。一度地面に転倒してしまうと、自力で起き上がるのは困難で、段差のある外を出歩くのはかなり危険だと思えました。そもそも手には1本の杖を持っていたのですが、足の力が足りない状況では、杖と腕の力だけで身体を支えるのは無理なようで、杖の意味はなさそうな感じでもありました。
もはや折れそうなほど細い身体をしているので、とっさの状況でも支えて大丈夫なのかどうかすらも不安になります。無理に腕を持って支えてしまうと、腕が折れてしまうのではないか不安になるほどに。
この日の診察では、主治医から「いつでも入院して良い」と言われたものの、今日は入院しない選択をしたとのこと。いつでも入院できる許可が得られたので、いざとなればいつでも病院に頼れる安心感が得られたのかもしれません。(※夜間や週末を除いて、主治医が病院にいるときになら、いつでも入院を受け付けるとの説明でした。夜間や週末では入院の可否はそのときの当直医の判断によるため、必ずしも入院できるとは限らないとのことでしたが。)
肺がん発覚から約1年半後のある日、朝から身体が痛くてだるくてほとんど動かせなかったようで、壁伝いにならなんとか移動できたものの、トイレで転倒してしまったことで入院を決断。しかし、自力での移動はもう困難なので病院へ連絡してから救急車を呼び、病院へ搬送。そのまま入院することになりました。
主治医からの説明によると、肺がんの腫瘍自体にはさほどの変化はないが、肝臓が相当に肥大化しており、ほぼ肝臓の全域が癌細胞に取って代わられている状態だとのこと。また、父のお腹や背中に多数見える親指大の瘤(コブ)は、癌が皮膚転移したものだそうです。PRO GRP(うろ覚え)という腫瘍マーカーでは、計測最大値を超えて具体的な数値が出ないほど(普通の値は80くらいだが今回の結果は5万以上)だったようで、「これ程の数値は滅多に見ない。ここまでよく頑張ったと思う」との話を聞きました。
ここ数日、腕や足などの擦り傷から血がなかなか止まらない現象が続いていましたが、血液検査の結果、血小板の値が4万程度まで低下しており、「この数値なら血がなかなか止まらないのも納得だ」とのこと。過去の血液検査結果と比較して、血小板の値は低下し続けており、1万を下回ると自然出血の可能性もあるとの話でした。肺の腫瘍の大きさにはさほどの変化がないものの、血痰は出ています。血が止まりにくくなっているので、肺の腫瘍からの出血も止まりにくいということなのでしょう。
主治医から、「本人の希望によっては家に帰してあげたいが、おそらくこれが最後の入院になる」、「ここまで来るとあと1ヶ月くらいかもしれない」、「できるだけ苦しくないように楽にしてあげる方向で考える」などの話を最後に聞きました。今回の病室はベッドが窓側なので、外の空と山がよく見えます。
父は、「足先が痺れていて、自分が靴を履いているのかどうかも分からない」と言っていました。長く正座をして足の感覚がなくなったときのような感じがずっと続いているようです。そのため、自身の足がどのような状態にあるのかが把握しにくいので転倒しやすいのでしょう。
以下、入院後の各日の簡単な記録。
10日目の朝にたまたま回診で遭遇した主治医の先生の話によると、父は「徐々に身体がしんどくなってくる典型的な病状」だそうです。ただ、肺よりも肝臓の方が問題なので(一般的な肺がん患者とは異なり)呼吸が苦しくはない点は良いが、との話でした。父は「何をするにしてもしんどい」と言っていますが、確かに「苦しい」ことと比べれば、まだ「しんどい」方がずいぶん良いだろうとは思います。
本人と主治医との会話を聞くと、「食事や飲料の味は分かる。匂いも感じるので『ああ食べたいな』とは思うものの、一口二口食べるとむせるので、一度むせるとそれ以降は食べる気がなくなる」との話でした。
入院12日目に病院側が「とろみ粉」を用意してくれたとのことで、ベッド脇のテーブルにスティック状のとろみ粉がたくさん袋に入った状態で置いてありました。父の話によると、水を飲むとむせるが、とろみ粉を混ぜると大丈夫だとのこと。喉に落ちる速度が遅ければ、むせずに済むのでしょう。飲料の味を変えることなく、とろみだけを付加する粉があるようです。病院側が用意してくれたので自力で調達する必要はありませんでしたが、市販もされています。病院で用意されていたのは「ソフティアS」という1袋3gの製品でした。
また、小さなパック状で販売されているゼリー飲料なら少しずつ飲めると分かりました。例えば、みかんゼリー飲料や、Qooのゼリー飲料版など。液体に「とろみ」があれば大丈夫だともっと早くに気付けたら良かったのですが、経験したことはもちろん話に聞いたこともなかったのでこれまで気付けませんでした。
16日目以後は、病院食をおかゆに変更して貰ったことで、多少は食べられるようになった様子です。
入院17日目に、主に長期入院患者を扱う病棟の病室へ移動することになりました。入院が2週間くらいを超えると病棟を移動する方針らしいです。同じ呼吸器内科で主治医も変わりませんが、病室だけが変わります。病室の移動後も、外がよく見える窓際のベッドだったので良かったと思いました。青空や雲だけだったとしても外の様子が見える方が良いでしょうから。
今回の緊急入院後、1ヶ月が経ちました。当初は主治医から「もうあと1ヶ月くらいかもしれない」と言われていただけに、この低出力状態でもまだまだ保つのではないかな、とも(私が)思い始めていました。
翌日の朝早くに病院から電話がありました。朝から体調が悪く食事ができない状態で、面会に来られるならできるだけ早くとの話。病室に行くと、身体や指先にケーブルを付け、脈拍・血圧・呼吸数などを確認するベッドサイドモニタが設置されていました。その後、ゼリー飲料版のポカリスエットゼリーや、ビタミンレモンゼリーなどは少し飲めました。寝返りを打つのも困難なようで、看護師さんに助けてもらいつつ身体を動かしているようでした。何度か酸素飽和度が下がり、ベッドサイドモニタのアラームが鳴っていました。この朝は50分ほど居て退室。
夕方に再度病室へ行くと、受け答えの反応が乏しく、半ば寝ているような感じというか、ほぼ寝ている様子。看護師さんの話によると、日中にゼリー飲料は飲めていたそうです。
一時はもうこのままの状態が続くのかと危惧しましたが、翌朝に病室へ行くと、昨日よりも反応は良くて会話も普通にでき、空腹感と食欲もあるようで食事を取る気にもなった様子。さらに漫画を読む気にもなったようで、全体的に多少回復できた感じでした。
翌々日の朝、父の話によると、食欲自体はあるものの、食べるとむせる上に疲れてしまうので、結果として食べる量が少なくなってしまうとのこと。もし、むせずに済めば、そこそこの量を食べられるのかもしれません。
その日の夕方、「もう足を自力で動かせなくなった」と言いました。今までは身体に掛かった布団を足で押しのけるなどの動作ができていましたが、それができなくなったとの話でした。
朝、病室へ行き、いつものように父の様子を見ると、痰を自力で出すのが次第に難しくなってきている様子でした。
昨日に、主治医の先生から話があるとの連絡を受けていたため、15時に母と二人で病院へ行きました。すると、ナースステーションで看護師さんから「今まさに危険な状態で、病室に先生が来ている」と説明を受けました。病室に入ると、父は酸素吸入の大きなマスクを付けていました。主治医から「手を握ってあげて下さい」と言われたので母と二人でベッドの両側から手を握ると、父は私の方を見て、本当に微かな声で「最後に会えて良かった」と呟きました。(それが本当に最期の言葉でした。)
その後、病室を個室に移すということで、看護師さんらが父のベッドを移動させる間に、別室で主治医から話を聞きました。主治医によると、「死前喘鳴(しぜんぜんめい=衰弱が進んで咳ができなくなった場合に喉の奥から発せられるゴロゴロという音)があるため、もう今日逝ってもおかしくないし、あと数日かも知れない」という話でした。
その話の後に病室(個室)へ行くと、父は心拍数も呼吸数も低下しており、主治医の先生は「ああ、これはもう最期かもしらんね」と診断。ベッドの脇から父の手を握ると、一度か二度程度は少し握り返すこともありましたが、ほぼ反応なく、私と母と主治医の先生と看護師さんらに囲まれながら、少しずつ心拍数や呼吸数が低下していきました。父はずっと目を見開いた状態で、瞬きを一切しませんでした。最期の瞬間にはこのような感じになるようで、その状況について主治医の先生は、「一説には最期の瞬間までしっかり見続けるためとも言われているね」と言っていました。
最後の最後に1度だけ、ゆっくりと目を閉じてから再度開きましたが、その後には主な反応なく、心拍数が徐々に徐々に弱まっていき、ハッキリと「いつだ」とは分からないくらい静かに呼吸がなくなり、永眠しました。(その後に主治医が瞳孔の確認などをして、死亡時刻が確定しました。)
父とは今朝まで会話ができていたことを考えると、本当に最後の最後ギリギリまで頑張り、その後は火が消えるようにすっと逝ったのだと思います。父の最期の瞬間を看取ることができたことは良かったと言えるのでしょう。過去には喀血が何度かありましたから窒息を危惧していましたが、父の場合は窒息に苦しんだわけではなく、徐々に弱っていく穏やかな最期だった点は一つの救いだったかもしれません。
挨拶に来られた看護師長からは、穏やかな人だったと看護師らから報告を受けていたとの話を頂きました。病院から葬儀場へ搬送する際には、主治医も含めて看護師さんら総出で見送って頂き、搬送車が見えなくなるまでお辞儀されるなど、手厚い見送り方だったことに驚きました。
葬儀を終え、火葬が終わったのは夕方遅くでした。骨はわりとしっかり残っており、喉仏が欠けずに残っていて(なぜ喉仏と呼ばれるのかがハッキリ理解できるほど)仏の形が明確に分かったほか、「指仏」と呼ばれる指先の骨が3体ほど残っており、「指仏が見えるのはとても珍しい」と感心されました。
亡くなった後にも、病院でも火葬場でも感心された父でした。
肺がん発覚から1年9ヶ月ほどの間、よく頑張ってくれたと思います。
父の冥福を祈ります。
以上、誰かの役に立つかも知れないと考えて、記録を公開しておきます。(上記は2018年~2019年にかけての話です。)
残念ながら希望を提供することはできませんでしたが。
父が肺がんだと分かって以後、いろいろな情報を調べましたが、とりあえず誰にでもお勧めできる分かりやすいウェブサイトは、「肺がんとともに生きる@アストラゼネカ」や「国立がん研究センター がん情報サービス(一般の方へ)」あたりだと思います。
そのほか、挙げればキリがありませんが、ブックマークを振り返ると「がん治療(標準治療)の基礎知識 第4回 肺がん」、「がんの標準治療を受けない危険性」、「がん治療の現状」、「肺がんの緩和療法」、「再発小細胞肺癌 - 日本肺癌学会」、「あなたもがんをみとる」、「化学療法全般について」などを特にメモしていたので、ここからもリンクしておきます。
癌治療に関する情報を調べる際には、まずは公的機関による情報や、大病院・大学、世界的に有名な製薬会社など「情報源が明確な組織」による情報を最初に参考にすることをお勧めします。癌治療に関係したウェブサイトでは「藁にもすがる」という人をターゲットにした悪質な広告サイトが多々ありますから、単純に検索結果に表示されたページを頭から閲覧するようなことはせず、公開されているサイトのドメイン名などを確認して、情報の信用度がどれくらいありそうかを最初に判断してから参考にする方が安全だと思います。
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